その1 お船祭り
穂高神社御船祭り
熊野神社お船祭り
荻原神社のお船
山国の安曇野では各集落で船の形の山車(だし)を曳航する祭りがあります。
船は急峻な川の山国では交通手段としては大変不向きです。
それにも関わらず、なぜ海がない信州でこのような「船」が作られるのでしょうか?
現在でも安曇野では、33ヵ所の神社の祭りで43艘のお船が出されています。
信州の安曇野は山国ですが「海」にとても関係が深いお祭りのようです。
そのなかでも 安曇野の穂高神社での御船祭りが有名です。
毎年9月27日、15:00~16:00はお船をぶつけ合う荒々しいお祭りです。
不思議な不思議な山国のお祭りです。
その2 ほたかという名前
穂高駅
穂高神社
穂高神社
新宿7:30発の特急あずさに乗れば10:44に列車は安曇野の中心「穂高」に到着します。穂高駅のすぐそばには穂高神社があります。
さて、「ほたか」は古事記には、ワタツミ(綿津見神・綿積神)の子で阿曇(あづみ)氏の祖とあります。[ワタツミとは「海」のことなのです]
安曇野の人たちがあづみの祖である穂高神社をお参りするのは当然のことですね。
安曇一郡之宗廟 穗髙神社
安曇野でお船祭りが行われるのは「ほたか」のお父さんが海の神様だからなんです。安曇・阿曇はアマツミ(海津見)が言いやすく省略されてアヅミと言われるようになったとも。
「ほたか」から「海」との関係が出てきました・・・。この海神様を安曇の人たちは祀っているのです。
でも、四方を山に囲まれた信州の安曇野にどうして山の神様ではなく、海の神様を祀っているのでしょう??疑問は膨らむ一方です。
穂高神社を詣でますと まったく同じ神様を祀る神社が なんと、九州の福岡(博多)、漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)印が発見された あの志賀島(しかのしま)にあると云うのです。博多は 那の津(なのつ)と云って、朝鮮や中国との交易が昔から盛んに行われていました。海運の盛んな「なのくに」だったのです。
そこの志賀島の志賀海神社の宮司さんは現在も「あづみ(阿曇)さん」とおっしゃいます。筥崎宮にも「あづみさん」という方がいらっしゃいました。あずみさん、あづみさん、博多の地には多い名前です。
なにかとても深いつながりがありそうです。でも、なぜ信州と博多が?
ほたかはあづみの祖→お父さんは海の神様→同じお父さん神様が博多にもいた→博多に「あづみ」
さんもいた!
つまり、信州安曇野の穂高神社と九州博多の志賀海神社はまったく同じ海神を祀る関係があるのです。
博多の海神 →その息子「ほたか」はあづみ族の祖として信州安曇野の穂高に祀られている
その3 えごとおきゅうと
山国の信州の安曇野では海草「えご草」を食べる習慣があります。不思議です。信州のえごの食用率を地域別にまとめた坂本博氏のデータによると、北安曇郡(小谷村・白馬村)、大町市、松川村、池田町、旧南安曇郡(現安曇野市)に分布しているとのこと。松本市では食べる習慣がありません。要は「えご」を食べるのは安曇といわれている地域だけなのです。
さて、前回穂高神社と同じ海神様を祀っている福岡(博多)の話をいたしました。なんと、博多にもえご草を食べる習慣があるのです。その名は「おきゅうと」。博多出身の人は誰もが知っている食品です。箱崎(はこざき)では今でもえご草からおきゅうとを作っています。昭和30年代にはおきゅうとのふれ売りが残っていました。
写真は信州・池田町のスーパーマーケットで販売されている「えご」。盆、正月など帰省の人が多い時期やお祭りの時には乾燥させたえご草も販売されます。安曇野の人たちは自分の家で「えご」を作って食べます。海の人が伝えなければこのような食文化は山国には継承されませんよね。いったい誰がどこから伝えたのでしょう?
http://www.otomisan.com/sea-food/ego/
(上記サイトを見ますと博多から安曇野のみならず新潟へも「えご」が伝わっているようです)
その4 あづみ発祥の地
山国の安曇野で「お船祭り」を継承し、海の神様を祀り、安曇野だけ「えご(海草)」を食べるという独特の食習慣。
ウィキペディアで「安曇」を調べますと「阿曇氏 - 海神(ワタツミ)を信仰する一族。安曇族。」とありました。さらに「阿曇氏は古代日本を代表する海人族として知られる有力氏族で、発祥地は筑前国糟屋郡阿曇郷(現在の福岡市東部:和白(わじろ)、新宮(しんぐう)、志賀島(しかのしま)あたり)とされる」とあります。この地図では東区の海岸(左側上部)に絞られてきました。
志賀海神社の宮司さんはあづみさん。あづみとは人の名前なのです。古事記にも載るほどの古くからの名前です。
そして安曇野では「ここが安曇」という場所が特定できません。それは、人の名前だからなのかも知れません。
ということは、博多の阿曇氏が信州の安曇野までわざわざやって来たということになります。九州の博多は温暖でほとんど雪は降りません。信州の安曇野は冬は寒く、雪がたくさん降り積もります。海の人たちがどうして山の中へ???
いつ頃、なぜ、わざわざ博多から信州までやって来たのでしょうか?
話はどんどん つづきます。
※安曇、阿曇などいろいろ漢字が違うのは、その昔、口伝えで受け継いできた名前を 輸入された文字に当てはめようとしたら いろんな当てはめ方があり、いろんな書き方になってしまったものと思われます。(日本最古の歴史書である古事記は、西暦712年に編纂です)
※糟屋の郡は志珂郷(現在の志賀島)、安曇郷(新宮、和白)を中心に古賀市、立花、香椎、志免、宇美、粕屋、箱崎あたりでした。なお、おきゅうとの発祥の地の箱崎はこの地図で福岡市東区役所がある位置です。
志賀島より東側を望む
海の中道(うみのなかみち)は、志賀島と九州本土とを繋ぐ陸繋砂州で、全長約8 km。手前の森が志賀島。写真奥の左側から古賀、新宮・和白で砂州と繋がり、画面中央に香椎、箱崎あたりを望む。砂州の左側は玄界灘、右側が博多湾(古名:那の津・なのつ)・・・漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)「なのこく」が博多湾にあった奴国=那の国のこと
その5 移住はいつなのか
残念な事に「移住」に関する文献、伝承が無いのです。穂高や有明山麓に分布する古墳は1500~1300年前のもので、畿内型古墳とは異なり、北九州の古墳の作りと一致するといいます。
このことから博多のあづみ族が信州安曇野に移住したのは6世紀といわれています。現在21世紀ですからおよそ1500年ほど前になります。
つまり、西暦550年頃には既に到着し、定住を始めていたと考えられます。坂本博氏の文献では最も早くて530年ころと記載されています。
ではその頃 なぜ 博多のあづみ族が信州に「移住」しなければならなかったのでしょう? ・・・・・つづく
(写真は安曇野の西に大きくそびえる有明山(ありあけやま)2268m)