【 安曇野の秘密 後編 】 

その6 移住の理由(わけ)

博多の東部に暮らしていたあづみ族がなぜ信州に移住したのか?
博多に住めなくなった理由を探してみましょう。

①博多の町の壊滅??...
②移住を命ぜられた??
③生き延びるため逃避行??

6世紀は北九州では有明海を囲む筑紫(福岡)肥前(佐賀・長崎)肥後(熊本)そして豊前(福岡東部・大分)等を統一した豪族の磐井(いわい)を首長とした連合国家が出来ていました。



①磐井は博多の町の糟屋一帯の灌漑を目的にコツコツとダム(水城・みずき)を造っていましたが、没後、573年夏の台風で決壊。御笠川下流の箱崎一帯(あづみ族居住地区の一部)は全壊・全滅という伝えがあります。
しかし、九州には台風は毎年やって来ます。台風ごときで、稲作が盛んだった博多を捨てて、寒い寒い信州にこぞって移住はしません。
②移住を命ぜられたくらいの理由で穀倉地帯となった安住の地からやすやすと移住するような九州人はいません。
③527年~528年にかけて有明連合とヤマト軍との戦(いくさ)があり、有明連合は敗れた。

 「磐井の乱」・・・これが移住の原因であると思われます。

有明連合の首長である筑紫君磐井(つくしのきみいわい)は、ヤマト軍と1年半にわたり交戦したが、敗れ、殺されました。生存者の男性は耳をそがれ、手に穴を空けられ子供までが奴隷にされたといいます。磐井の根拠地「八女」(やめ)の岩戸山古墳(いわとやまこふん=磐井の墓として生前造っていたことがわかっています)の石人・石馬まで徹底的に破壊されてしまいました。(写真は岩戸山古墳の石人・石馬 首が無い・手が無い)

奇跡的に戦乱を免れた博多の町には磐井の息子があづみ族の娘をめとって住んでおりました。当時日本最大最新の港湾施設である「糟屋の屯倉(かすやのみやけ)」を献上しても、ヤマトの厳しい追求・要求は収まらない。当然、ヤマト政権は磐井の息子も殺害しようとしていたと思われます。

③の 生き延びるために逃げてきた。


磐井の息子である葛子(くずこ)を生き延びさせるための逃避行だった・・・・・ あづみ族は海運業だったため、朝鮮はもとより、日本海沿岸との人々との交易があり、その人たちにも助けられながら、ヤマト政権の影響が及ばない(当時は蝦夷地)信州の山奥まで 磐井の息子を連れて 逃げてきたと考えられます。

対馬海流に乗って出雲、能登、糸魚川へたどり着き、彼等の導きにより 荒れ狂う姫川を遡り、白馬・佐野坂峠を越え、現在の仁科三湖(青木湖・中綱湖・木崎湖)を渡り、高瀬川を下り その下の安曇湖にたどり着いたと思われます。もちろん当時は未開の地であり、地図にも名がない・・・何もない場所だった事でしょう。

能登半島には博多安曇族の根拠地である「志賀」という同じ地名があります。


※ヤマトとの戦いの原因は、有明連合はヤマト軍の朝鮮出兵のジャマをした悪者だからと国定歴史書の「日本書紀」に書かれています。しかし近畿のヤマトが多量の輸送船をもって自からすすんで朝鮮へ出兵するはずも無く、玄界灘の航行に慣れた有明連合に「行け」と言ったものの、有明連合は仲良くしている朝鮮への出兵を拒否。結局、九州勢は近畿勢に難くせをつけられ、争ったが、戦に負けてしまったので悪者にされたのでしょう。

磐井の乱(527年6月3日~528年11月11日)」は古墳時代後期、古代最大の戦争と位置づけられています。
 地図中ほど久留米の南に磐井の根拠地の八女(やめ)があります。

※調査に行った岩戸山歴史資料館(八女市)は残念な事に2015年8月をもって閉館。

※平成11年(1999年)、古賀市鹿部(ししぶ)土地区画整理事業による発掘調査の結果、みあけ史跡公園が「糟屋の屯倉」ではと言われています。福岡県古賀市美明1丁目4番11外。



磐井の息子とあづみ族がどうして信州の安曇野を選んで逃避したのでしょうか・・・

その7 なぜ安曇野に移住したのか

長野県の縄文文化は北へ流れる千曲川~信濃川水系と諏訪湖から南へ流れる天竜川水系に発達していました。松本・安曇野地域に弥生文化がやってくるのは教科書の年代から遅れること500年と言われています。
安曇野は未開拓の地・・人が住めない荒れ地だった。
河川の氾濫地域だったのかもしれません。
安曇野は 他の部族と争わずにすむ・・・ 空隙地帯だったから。






ひょっとすると、安曇野は昔々「湖底」だったからかも知れません。
湖だったかも知れないと思わせる いくつかのトピックスをあげてみましょう。


【地名】
青い線(標高600m)より上には窪海渡(ちひろ美術館:610m)、南海渡(鼠穴:620m)、北海渡(アルプスあづみの公園:650m)、梶海渡(神林:610m)という地名があります。
赤い線(標高580m)には宮渕島内という水辺を示す地名が並んでいます。


安曇野の低い場所は人が住めないところだったようです。松本市立考古博物館によると松本市内の縄文時代晩期の遺跡は中山あたり標高が650m前後、弥生時代後期になると標高が600m以下の北部に(宮渕本村、県など松本城あたりからも)多く発見されているそうです。確かに穂高郷土資料館によると安曇野の縄文遺跡は穂高牧の他谷(たや)遺跡や穂高烏川左岸の離山(はなれやま)遺跡ですが、標高は650m前後です。



ちなみに標高600mの湖だったとすると青い線の内側は湖水で満たされていた・・・
標高600mの主な地点:Vif穂高、安曇野山麓線、鼠穴、ちひろ美術館、松川村大門交差点、池田町二丁目交差点、花見、滝の台、池田町山辺の道、池田町北アルプス展望美術館、明科七貴、(篠ノ井線は550m)、松本市図書館、県の森公園、筑摩神社、野溝木工、大久保工場公園団地、島立、三郷明盛、三郷温、住吉神社、田多井



【水湿地植物】
昭和55年3月、松本市県の森(あがたのもり)(標高600m)の発掘調査で「イヌドクサ」の地下茎が発見されました。穏やかな水湿地に育成する多年生シダ植物です。湖の淵に生えていたのではと思われます。その後、この古代イヌドクサは芽を出したそうです。


【遺跡】

標高547mの穂高神社境内遺跡からは古墳時代後期から平安時代にかけての住居跡が6軒発見されています。(縄文・弥生時代ではない)

しかし標高542mの「安曇野市穂高交流学習センター みらい」の三枚橋・藤塚遺跡からは縄文式土器が発見されたといいます。このことから湖底に縄文人が住んでいたとは言いがたく、標高530m(緑の線)あたりの湖を干拓したのでは?とも考えられます。


奈良・平安時代の遺跡は147号線沿いに(柏矢町から穂高町まで)南北に並んで見つかりました。これを水辺とすると緑の線(標高530m)の内側はまだ湖だったかも知れません。





ただ、安曇族が標高600mの安曇湖を干拓したのではという仮定は否定されてしまいます

旧石器・縄文時代



縄文後期に女鳥羽川遺跡(信州大学医学部附属病院そば:標高600m)より下の場所では遺跡が見つかっていません。

弥生時代



弥生時代で一番低い位置の遺跡は穂高の三枚橋・藤塚遺跡(安曇野市穂高交流学習センター みらい:標高542m)です。

古墳時代



古墳時代は円墳が穂高有明中房川と烏川の間の標高600mより上の場所に古墳が集中して作られました。

奈良・平安時代



奈良・平安時代で一番低い位置の遺跡は穂高の三枚橋・藤塚遺跡(安曇野市穂高交流学習センター みらい:標高542m)です。



【古墳】
穂高古墳群(円墳:一般型 約1500年~1300年前 近畿に多い前方後円墳ではない)は山麓線(標高600mより上)に80基も集中して見つかっています。安曇族が自分たちの居住地域より上に造ったものと考えられます。(お墓は水辺には造りません)

穂高町古墳分布図

長野県内には約3000基の古墳があります。特に多い地域は善光寺平、伊那谷で県全体の70%を占めます。


松本平には約200基の古墳があり、そのうち安曇野市には約80基が存在し、そのほとんどが穂高の中房川(なかぶさがわ)と烏(からすがわ)の間の標高600mより上部に集中しています。
今から約1500~1300年前に作られた古墳で、すべて横穴式石室を持つ円墳です。

松本にある弘法山古墳は前方後方墳であり、穂高の円墳とは異なる作り方をしています。


【泉小太郎伝説】


安曇野は昔々「湖」でした。犀(サイ)に乗った小太郎が湖を堰き止めていた山清路の岩を突き崩したため、水が一挙に引き、広大な安曇野が生まれたとの言い伝えがあります。川の名前も犀川(さいがわ)となりましたとさ。この年代がわからないのです・・・。


『信府統記』に泉小太郎に関する記述があるので、以下に要約して紹介いたします。
景行天皇12年まで、松本のあたりは山々から流れてくる水を湛える湖であった。その湖には犀竜が住んでおり、東の高梨の池に住む白竜王との間に一人の子供をもうけた。名前を日光泉小太郎という。しかし小太郎の母である犀竜は、自身の姿を恥じて湖の中に隠れてしまう。放光寺で育った小太郎は母の行方を捜し、尾入沢で再会を果たした。そこで犀竜は自身が建御名方神の化身であり、子孫の繁栄を願って顕現したことを明かす。そして、湖の水を流して平地とし、人が住める里にしようと告げた。小太郎は犀竜に乗って山清路の巨岩や久米路橋の岩山を突き破り、日本海へ至る川筋を作った。


北に流れて日本海にそそぐ川は犀川一本しかありません。しかも生坂の金戸山付近は谷幅が90mしかありません。山が崩れれば簡単に封鎖されます。その部分を掘削したのかも知れませんね。

もし、移住してきた安曇族が古墳造成の土木技術を駆使して安曇湖の水抜きをやったとしたら、それはそれは豪快な集団だったかも知れません。(推論にすぎませんが・・)





安曇族は550年ころには、この信濃の未開の地(安曇野)に移住し、コツコツと田畑を開拓しながら 生活の基盤を固めていき、安定した生活は250年間ほど続いたものと推察されます。

つづく

その8 八面大王伝説

安曇族は移住して100年ほどで地名に記されるほどの繁栄をし、その後 奈良の正倉院に麻布を献上するまでに安定した暮らしをしていました。しかし・・・移住から250年ほどして 究極の難題がやって来ました。

【八面大王伝説】
■その昔、全国統一を目指した大和朝廷が、信濃の国を足がかりに東北侵略を進めていました。この地の住民たちは朝廷軍にたくさんの貢ぎ物や無理難題を押し付けられて大変苦しんでいました。安曇野の里に住んでいた魏石鬼(ぎしき)という八面大王はそんな住民を見るに見かねて立ち上がり、坂上田村麻呂の軍と戦い続けました。多勢を相手に引けをとることなく戦った大王でした。

が、山鳥の尾羽で作った矢にあたり、とうとう倒れてしまいました。大王があまりに強かったため・・・・・(このあとのお話は次回につづく)
(写真は大王わさび農場の八面大王)



■「あづみ」という文字が見られるのは、大化二年(646)年の改新の詔により、全国が畿内七道に分けられ、東山道に科野(信濃・しなの)国を置きその下に伊那・諏訪・筑摩・安曇・更級(いな・すわ・つかま・あづみ・さらしな) 水内・高井・植科・小県・佐久(みのち・たかい・はにしな・ちいさがた・さく)の10郡に分け、その下に63の郷が置かれた。安曇郡には高家郷、八原郷、前科郷、村上郷(たきべ・やはら・さきしな・むらかみ)の4郷が置かれたとあります。


■安曇氏が文献上初めて登場するのは、奈良時代(746)年頃で、その年の10月に正倉院に献納された麻布に記載されている文字に『信濃国安曇郡前科(さきしな) 郷戸主安曇部真羊調布壹端(へぬしあづみべのしんよう)』とあります。献上した真羊さんが安曇姓を名乗っていたことが分かります。また、ここに登場する前科郷というのは明科小泉から押野、池田町にかけての山麓に展開していた50戸あまりの郷村で、当時は麻の産地でこれを布に織って税の一種として朝廷に納めていたようです。

■この八面大王の戦いは、ある説では793年~795年の間、もう一つの説では806年と言われています。794年が平安京遷都の年です。
ここで注目すべき名前が「八面大王」です。いまでこそ(はちめんだいおう)と呼んでいますが、大和言葉(本来の日本語)では(やめのおおきみ)となります。漢字は輸入された文字ですので本来の日本語を漢字になおすときは素直に当てはめていったものの、長い年月で文字だけが記録に残り、読みも漢字の読み方に変わっていったものと思われます。(坂本博著より)
魏石鬼(ぎしき)さんは、九州の八女(やめ)のおおきみ(磐井氏)の子孫なのです。

■西暦550年前後に安曇野にやって来た八女の磐井氏の息子と安曇族は100年ほどかけて未開の地安曇野に安定した基盤を作り、地名にもなるような繁栄をし、たくさんの古墳を残しました。250年ほど経過した西暦800年前後の大和朝廷との戦で安曇族は完全に滅びてしまったのでしょうか?・・・・・・・(これも次回につづく)

その9 八面大王や安曇族のその後

ヤマト正規軍は安曇野の南側に布陣、現在「倭(やまと)」という地名が残っています。一方、豪族仁科族は北側に布陣、現在の大町市の仁科神明宮(にしなしんめいぐう)であったろうと云われています。
北と南から挟み打ちにあってしまった八面大王は有明山の魏石鬼窟(ぎしきのいわや)までにげのびますが、とうとう矢を射られてしまいました。
大王があまりに強かったため、蘇ってこないようにと身体をバラバラに刻み、胴体は現在の大王わさび農場、頭は松本の筑摩神社、耳は耳塚、足は立足というふうに全く違う場所に埋めてしまいました。...
(写真は耳塚(右側の立木がある場所)、遠くに「有明山」が見えます)

不思議なことに、このバラバラ埋葬の地名を結ぶと「有明山」にほぼ一直線で至るのです。



■大町の仁科の里にのこる八面大王伝説は次の様です。
西暦770年-780年にかけて、民家や倉庫から雑穀や財宝を盗む事件がおきた。宝亀8年(777年)秋に調べたところ、有明山の麓に盗賊集団(「鼠(ねずみ)」、「鼠族」)の居場所を発見した。
その後、村への入り口に見張りを立てたが、盗賊は隙を窺っているらしく、盗みの被害はいっこうにやまなかった。そのうち盗賊たちは、「中分沢」(中房川)の奥にこもって、8人の首領をもつ集団になった。
山から出るときは、顔を色とりどりに塗り「八面鬼士大王」を名乗り、手下とともに強盗を働いた。これを憂いた皇極太子系仁科氏3代目の仁科和泉守は、家臣の等々力玄蕃亮を都(長岡京)に遣わして、討伐の宣旨を求めさせた・・・。

八面大王は盗賊となっています。


■北安曇郡松川村には鼠穴(ねずみあな)という地名があります。
勝利した側が安曇族のことを馬鹿にして「鼠(ねずみ)族」と言ったのでしょう。
戦の発端も年代もまるで違う話になっています。

■有明山から流れ出る中房(なかぶさ)川には、大王橋、鼠橋があり、また、八面大王が最後に身を隠したと云われる「魏石鬼窟(ぎしきのいわや)」があります。
山麓線と中房線の交差するところは「宮城(みやしろ)」と云います。宮城とは天皇(おおきみ)が住む皇居の事です。

■安曇野では「ここが安曇村だ!」「ここが安曇町だ!」という場所を特定できません。
安曇族は穂高町、池田町、松川村あたりを中心に広範囲に居住していたものと思われます。

■磐井(いわい)は、九州では有明海を囲む連合国家の首長でした。
磐井の根拠地 八女(やめ)の真西には有明海、そして、安曇族と共に遠く逃げ延びてきた安曇野の真西には今でも有明山がそびえています。「有明」という地名が同じ位置関係であることには驚かされます。

■安曇野での戦に負けた安曇族が皆殺しにあったという言い伝えはありませんでした。戦の後は、口をつぐんで静かに暮らしたのでしょう。ただ、博多からの風習はかたくなに守ってきたものと思われます。

■「歴史は勝者の物語である」と言われます。しかし、負けた者たちの伝説がこれほど残っていることは、とても不思議で嬉しい事です。


おしまい


【年表】       九州           近畿       安曇野

527/6/3~528/11/11 
           ■九州王朝(八女)と近畿王朝の戦い:磐井の乱
           ■磐井八つ裂きにされる
           ■筑紫君葛子が糟屋の屯倉を献上・助命嘆願
530~550ころ                           ■安曇族が安曇野現鼠穴に到着
550~750ころ                           ■現穂高有明山麓線(標高600m)以上の場所に円墳80基造成
                                     ■安曇族が安曇野を開拓
573         台風で箱崎壊滅
592                       飛鳥時代
646                                   ■科野の国に阿雲の郡を置く
685                       ■安曇宿禰を賜姓
710                       平城京遷都
712                       古事記(歴史書)編纂
764                                   ■安曇郡前科郷の人安曇部真羊、調布を貢す
794ころ                     平安京遷都    ■八面大王・坂上田村麻呂との戦
                                      ■八面大王八つ裂きにされる



追補:矢を射られて・・(矢矧三宝大荒神社やはぎさんぽうだいこうじんじゃ由来)
 この神社は、安曇野に古くから伝えられてきた八面大王伝説で、矢村の弥助が山鳥の矢をつくった場所に建てられ、弥助と山鳥の矢がご神体として祭られています。
 神社はこの地に住む有賀一族が毎年一回、旧の九月十五日に神主をよび神事を執り行い、後世に伝えています。
八面大王伝説とは
 平安の初めのころ、有明山の麓の矢村に弥左衛門・おさくの夫婦と弥助という子供が住んでいたが、父の弥左衛門は弥助の小さい時、有明山に薬草をとりにゆき八面大王にさらわれてしまった。母おさくは悲しみをこらえ、弥助に「生きものにはすべて夫婦や親子があるから、みだりには殺してはいけないよ」とたえず教えさとして大きくした。
 やがて二十年の歳月がすぎ、弥助はりっぱな若者に育った。
 その年の十二月二十八日のことだった。弥助は穂高の町へ正月の買物に行く途中、雪のなかでわなにかかって苦しんでいる大きな山鳥を助けてやった。
 それからしばらくたった大晦日の晩、道に迷ったひとりの美しい娘が弥助の家の戸をたたいた。つかれきった娘を介抱したことがきっかけとなり、やがて秋乃というこの娘は弥助のお嫁さんとなって、楽しい日々を過ごすようになった。
 春となり、坂上田村麻呂という将軍が奥州に蝦夷を征伐にゆく途中、村人を苦しめている八面大王のことを聞き大王を退治することになった。
 将軍と大王の戦いが始まったが、大王は強くて矢がいくらあたっても跳ね返してしまい、どうしても倒すことができない。そこで将軍は観音さまに一心に祈ってところ、三十三斑の長い山鳥の尾の羽を矢にして射れば退治できるというお告げがあった。将軍はその山鳥の尾を差し出すよう国々におふれを出したところ、矢村の弥助がおふれどおりの尾を差し出した。その矢に射ぬかれた八面大王は退治され、ようやく村々に平和がもどった。
 弥助に山鳥の尾をあげたのは、嫁さんの秋乃で、弥助にかつて助けられた山鳥だった。「これをお使いください。これがあのときの恩返しです」といって空へ飛んでいってしまった。それからは、かわいいお嫁さんを失った弥助の笑顔を見たものはいなかった。

■なぜ、なぜ、なぜ?
①弥助はなぜ坂上田村麻呂のおふれを守ったのか?
 父 弥左衛門を八面大王にさらわれて苦労したから
 →事は単純では無いと思われます。父は八面大王に共鳴し八面大王に仕える身となっていたのではと考えられます。 母おさくもその点は承知の上で弥助を一人で育てたと考えられないでしょうか
②なぜ秋乃は弥助に羽を差し出したのか?
 雪の中で命を助けてもらったから
 →事は単純では無いと思われます。 弥助の希望を聞き入れたら、ここ安曇野の八面大王に背くことになってしまう。どちらを選択しても安曇野では生きて行けないことを悟り、最愛の弥助に羽を差し出し、弥助の元を去るしかなかったのでしょう
③なぜ弥助に笑顔が戻らなかったのでしょう?
 秋乃が去ってしまったから
 事は単純では無いと思われます。 
村中の人たちから尊敬されていた八面大王を死に追いやった者として 冷遇されたと考えられます。
ただ 坂上田村麻呂軍にとっては弥助は最大の功労者ですので 彼のために祠を造ったと考えられます